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● そして二人は恋人同士になる  ●

 強く反対すべきだったと、二川原仁亮(ふたがわらきみあき)は臍をかんだ。片手で持てるぐらい軽いとはいえ、段ボール箱三箱を一度に運ぶのは危険だったのだ。クラス担任の須藤教諭にこの仕事を頼まれたとき、仁亮は真面目で優秀な級長の面を被って、それとなく反対した。そして見事に押し切られ――あの事故にあった。
 午前七時五〇分。日直のため普段よりも三〇分ほど早く教室に入った仁亮は、若い労働力を求めて待機していた須藤教諭に捕らえられた。荷物を運んで欲しいと言う。重くないしすぐに終わると説得されて、仁亮は三階の化学準備室に足を踏み入れた。
「この三つだ。どうだ、軽いもんだろう」
 須藤教諭は、なんとかみかんと書かれた段ボール箱を指さした。確かにそれらはとても軽く、まるで空のようだった。三つ合わせても一キロは超えまい。それらを中庭で待つ業者に引き渡してほしいというのが、教諭の依頼だった。
「これぐらいなら、先生お一人で十分でしょうに」
「あまり顔を合わせたくないんだ、あいつとは。おまけに、次の授業の準備がまだ終わっていない」
 身勝手で不謹慎な理由を堂々と言ってのけるあたりは、実に素晴らしい。呆れ半分に負けを認め、仁亮は箱を縦に三つ積んで抱え上げた。
 落とさないでくれよという無責任な声を背に受けて準備室を出ると、まもなく難所にさしかかった。下り階段である。仁亮は歩き始めの子供のような足取りで、一段一段を丁寧に下りた。前方はみかん箱に塞がれて見えず、茶色の角から二つ先の段を確認するのが精一杯だった。
 こんなことだから、たった一声で狂わされてしまったのだ。
 最後の踊り場を過ぎて、いよいよ一階に下りようというときだった。
「だいじょうぶ、二川原くん?」
 下の方から、鬼頭あかなの声がした。慎重に視線を上げると、今登校してきたところなのだろう、鞄を携えた可憐な姿があった。柔らかな薄茶の髪に、色白の肌。「お淑やかなご令嬢」を絵に描いたらきっとこんな感じだろうという、そのままの少女である。副級長の鬼頭あかなで間違いない。
 階段の一段目に足を乗せ、駆け寄ろうとしている彼女を見て、仁亮は慌てた。仁亮を助けようという意志が、差し込む陽光を浴びてきらきら光る目からぐいぐい伝わってくる。可憐なうえに働き者の副級長は、この荷物運びを級長の仕事と勘違いしているに違いない。全く関係のない雑事だからと断ろうとして、仁亮はつい勢いよく首を振ってしまった。
 これがいけなかった。
 揺れた頭が、三段目の段ボール箱に当たった。ごとりと嫌な音がした。
 頭の当たったなんとかみかんは、全く踏ん張りのきかない奴だった。静止摩擦の助けも及ばず、そいつはよろけて一歩踏み出し落下の二字を身に纏った。仁亮は彼を救おうとした。反射神経の命じるままに上体を曲げ、重心の移動にあわせて一歩踏み込んだ。階段の丁度中頃にいることなど、すっかり失念していた。
 しまったここは階段だったと気付いた時にはもう遅い。そこにあると期待した床に巡り会えず、仁亮の右足は予想外に沈み込んだ。大きく体勢が崩れた。段ボール箱を放り投げて、平衡を取り戻そうと両手が忙しなく宙を掻く。正に、悪あがきというやつだった。抵抗の甲斐なく、仁亮の身は宙に泳ぎだした。
 驚いたあかなが口を「わ」の形に開いたが、そこまでだった。転落して一直線に迫りくる仁亮を避けるばかりか、悲鳴を上げる間すらない。ぶつかられて押し倒されてどんと衝撃が背から胸に突き抜けて。
 気付いたら二人抱き合って一階の廊下に倒れていた。さいわい、下になったあかなは、仁亮に頭を抱きかかえられていた。お陰で、後頭部を斑模様の固い床に打ち付けずに済んだ。
 三呼吸した。
 四呼吸目で、仁亮はぎょっとしてあかなを離した。可愛らしいと評判の彼女の抱き心地を愉しむ余裕も度胸も持ち合わせてはいない。起き上がることだけを考え、ただがむしゃらに、床に手をついて力を込めた。
 そしてダウンした。先ほど放り投げてしまった段ボール箱に、後頭部を急襲されたのだ。全く痛くはなかったというのに、がくりと腕の力が抜けて、仁亮は再び倒れ込んだ。
 悪いことに、不意打ちを食らって崩れる仁亮の顔の下には、丁度あかなの呆然とした顔があった。意志が置き去りにされた時間の中で、二人の顔が急接近し。
 唇が触れあった。

「随分と早まったことをしたそうじゃないか」
 頭を抱えて自席で突っ伏している仁亮に、片山史彰(かたやまふみあき)は登校早々意地の悪い声と笑みを向けた。ほっといてくれと、仁亮は投げやりに答えた。
 仁亮とあかなの一件は、すぐに級友全員の知るところとなった。級長の仁亮と副級長のあかなが公衆の面前でくちづけを交わしたのである。とんだスキャンダルだった。とくに仁亮をからかう声は多く、くらい情念を含むものも少なくない。なにぶん、鬼頭あかなは可愛らしい女の子として大変人気だった。是非とも彼女にしたいと公言する者こそ少なかったが、視線を向けたりちょっと優しくしてみたりして、露骨に意識している輩はざらである。事故とはいえ、彼女の唇を奪った事実は、少なからぬ嫉妬を喚んだ。
「結構お似合いだと思ってたんだけど。お前達二人」
「そういう目で見られていたとは驚きだ」
「かなり脈ありっぽかったじゃないか。ほら、委員決めのときからさ」
 委員決めと言えば、四月に入り、二年に進級してすぐのことだ。史彰に指摘されて、仁亮は随分と遠く感じる、つい三ヶ月前の記憶を手繰り寄せた。
 鬼頭あかなは既に結構な注目を集めていた。仁亮も意識しないではおれず、新クラスの割り当て表であかなが同級と知ったときには心が躍った。一年のときには廊下ですれ違うだけだった噂の美少女が、きさくに挨拶してくれるようになるかもしれない。同じ級であれば、席が隣になることだって、委員や係で一緒になることもあり得る。文化祭や体育祭で一山当てればひょっとすることも!
 仁亮の浮かれ気分はあまりもたなかった。始業時間になり、簡単な自己紹介に続いて、委員決めが始まった。まずは級長を決めようと、新しい担任が自薦と他薦を募った時、すぐさま仁亮の名があがった。推薦したのは史彰だった。仁亮は、惜しくもあかなの隣席になれなかったこの中学からの悪友を恨んだ。男女一名ずつとなる他の委員、係とは異なり、級長はただの一人である。あかなの出方を窺い、あわよくば同じ役についてお近づきになろうという仁亮の密かな作戦は、悪友の思いやりに欠ける行動のために、早速躓いた。もちろん、史彰は仁亮の計画など知らなかった。彼はただ、自分の知る限り最も相応しい人間の名を挙げただけだった。仁亮は成績の優秀さから教師たちからの印象が良く、体育祭でそこそこ活躍するなどで級友のみならず他級や他学年の生徒にも名が知られている。機転と統率力と政治力が要求される級長には正にうってつけというわけだった。史彰の提案は多くの支持を集め、晴れやかな笑顔と歓迎の拍手をもって可決された。仁亮一人が暗く沈んでいた。あかなが副級長になれば問題はないのだが、大人しい彼女が、そのような大任を引き受けるとは思えなかった。昨年仁亮のクラスの級長を務めていた女子が、仁亮のすぐ隣に座っていた。どうせ彼女とコンビを組むことになる。
 早とちりもいいところである。右に三つ後ろに三つ離れた席で、そわそわと手をあげる準備をしながら鬼頭あかなが仁亮の背を見つめていることに、全く気付いていなかったのだから。
 級長の決定を祝う拍手が収まって、話題が副級長に移ったとき、あかなは勢いよく手を挙げた。残念ながら、彼女より前列に自席を持つ仁亮はこの決定的瞬間を逃した。担任の須藤教諭が彼女の名前を呼んで意思の確認をしたため、彼女の立候補を知ることができた。仁亮は心底驚いた。振り返ると、にっこりと微笑む彼女の顔と鉢合わせになった。よろしくおねがいします、と彼女に告げられて、仁亮は脊髄反射で立ち上がりこちらこそと頭を下げた。随分と突飛な行動であるうえに、随分と気の早い挨拶だった。鬼頭あかなは立候補したというだけで、副級長に決定したわけではないのだ。この奇行は級友たちの笑いを買ったが、或いは、これが幸いしたのかもしれない。結局他に自薦も他薦もおこらず、あかなに副級長が任されることとなった。
 あかなはたいそう出来のよい娘だった。成績が良いばかりでなく、めくらうちの要領で発せられる種々雑多の意見の要旨を掴んで纏めるのに長け、仁亮をよく助けた。容姿だけでなく、中身まで優れていると知って、仁亮はいよいよ彼女に惚れ込んだ。あかなも仁亮にはずいぶんと友好的で、級長会の後に仁亮が勇気を振り絞って喫茶店に誘うと、笑顔を添えて快諾した。史彰が指摘した通り、脈ありと言っても良さそうだった。
 今朝の一事は、きっとこれら全てを台無しにした。
 あのあと、鬼頭あかなは逃げるように階段を駆け上り教室に飛び込んでいった。後れて仁亮が入り、顔が合ってしまったときの気まずさときたら、もう逃げ出したくなるほどだった。仁亮は無言で自席につき、視界にあかなを収めないよう頭を抱えて突っ伏した。
 これはどう考えてもまずかった。謝るならこの時をおいて他になかったのだ。仁亮は、級友たちがぞろぞろと登校してきて次々とあかなや仁亮の前に集まり事の次第を聞き質すようになってようやく、このことに思い至った。時すでに遅し、後の祭り、後悔先に立たず、である。

 気まずいまま、三コマを過ごした。続く四限目は体育である。選択種目に得意の水泳を選んでいた仁亮は、いつになく覇気のない様子で更衣室の扉を開けた。
「ようやく現れたか。二川原」
 競泳用の水着に身を包んだ、厳めしい顔つきの男が立ちはだかった。隣のクラスの高橋喜暢(たかはしよしまさ)だった。また厄介な奴が現れたものだと、仁亮は一層意気を無くした。この戦国武将のような名前の男とは、昨年級を共にしたばかりか、去年に引き続き、見込みのある水泳部員としてタイムを競い合う仲である。
 喜暢は、有り体に言えば何にでも「あつい」やつだった。はた迷惑なことに、勝手に仁亮の好敵手を名乗っている。試験順位でも短歌大会の賞でも、短距離走のタイムでも一〇〇メートル競泳のタイムでも、競えるものならばどんなものにおいても勝負を挑まれた。仁亮はあまり乗り気ではなかったが、みすみす負けるのも悔しいのでつい相手をしてしまい、現在は二二勝三敗の戦績をもって優位に立っている。数字にすると圧倒的に思えるが、実際はいずれも際どい勝負で、少しでも気を抜けばあっという間に立場が逆転するだろう。
 またくだらない勝負を挑まれるのだろうと、仁亮は高を括った。予想は当たった。仁亮の消沈した様子など歯牙にもかけず、両手を腰に当てて、喜暢は堂々と宣言した。
「勝負だ。種目は一〇〇メートル自由形。勝った方が、水泳部主将の座と――」
 続く言葉を聞いて、仁亮は耳を疑った。とんでもなく頓珍漢なことを言われた気がした。適当にロッカーを見繕って荷物を放り込み、カッターシャツのボタンを外して胸をはだけたさせた仁亮は、今日二回目の驚きの表情を作った。この勝負好きの熱血漢から、まさかこのような言葉を聞こうとは、夢にも思っていなかった。
 鬼頭さんをいただく。
 喜暢の大真面目の表情を瞳に写して、仁亮は「開いた口が塞がらない」の彫像となった。
 挑まれたからと言って、受ける義務はない。今度ばかりは、仁亮は受けない気でいた。水泳部主将の件についてはいいとしても、あかなをいただくというのは、どうもいただけない。当該人物の了解を得ていないことは、彼と彼女の人となりを思えば火を見るより明らかだった。勝負を受けてしまえば、非道の片棒を担ぐことになる。
 喜暢が出て行った後の更衣室は、えもいえぬ空気に支配されていた。誰も彼もが仁亮に同情とその他のいくつかの感情が綯い交ぜになった視線を向けてくるのだが、決して話しかけようとはしない。居心地の悪さに背を押されて、仁亮は入ったのとは反対の扉から更衣室を出た。
 鬼頭あかながいた。
 二人揃って驚いて、しばし見つめ合った。
 あかなが仁亮を待っていたわけでは、もちろんなかった。全くの偶然である。ぼうっとした様子でふらふらとプールサイドへ向かっていたところ、突然男子更衣室の扉が開いて仁亮が現れたというだけのことだった。
 両者は共に、何か話しかけなければと必死で発話回路に指示を送った。ネタなどなんでもよい。とにかく普通に会話がしたかった。
 無理な話である。三コマの疎遠を跨いで再び訪れた大接近は、結局活かされなかった。
 先に土俵を下りたのはあかなだった。なに見つめ合ってるのよ、と友人に肩を叩かれて、あかなは我に返った。同時に恥ずかしさも思い出して、逃げるように仁亮の前から立ち去った。濡れたプールサイドもなんのそので、全く危なげなく、五〇メートルあるプールの向こうの端まで駆けていって、漸く止まる。
 端から見れば初々しいことこの上ない反応だったが、仁亮には異なって見えた。酷い嫌われようだった。きっとケダモノとかなんとか思われているに違いない。あかなの友人が暖かい応援の眼差しを向けてくれているのにも気付かず、仁亮はあかなとは反対側のプールサイドに上った。
 まもなく、監督役の教諭から集合の号令がかかった。その声を聞いた途端、仁亮の意気は僅かに浮上した。他の生徒の示す反応とは正反対である。
 監督役は、生徒指導の任を請け負う、とにかくガンコで口うるさくて嫌われ者の体育教師だった。彼が監督する限り、授業中に好き勝手をはたらくことは許されない。飛び込み時に背中を押すのはもちろん、水を掛け合って騒ぐのも、一〇〇メートル自由形のタイムを競うのも、くだんの体育教師と嬉し恥ずかしの一時を得る素敵なチケットだ。流石の喜暢も、彼を相手に一悶着起こす酔狂は持ち合わせていない。腹の裡が全て分かってしまいそうな恨みがましい視線で頻りに仁亮の背を抉りながらも、大人しく授業を受けるしかなかった。逆に、仁亮はこの状況に大変満足し、このまま何事もなく授業が終了することを切に願った。
 その願いは聞き入れられたかに見えた。時計の長針と短針がぴたりと合わさるその時まで、転覆の予兆はどこにもなかった。
 あと最大で二〇分堪えればよいと思ったそのとき、突然校内放送用のスピーカーからくだんの体育教師の名が飛び出し、職員室に来るように告げる声が響いた。急を要する用件であるらしく、適当に上がるように生徒に告げて、体育教師は持ち場を離れた。
 絶望的なまでに絶好の機会だった。仁亮が不吉を感じて顔を顰めるのと、喜色を湛えた声が響いたのはほぼ同時だった。
「約束通り、勝負だ。二川原」
 なになに、と事情を知らぬ生徒達が目を向ける。瞬く間に更衣室での一件が知れ渡り、プール場は勝負を唆す声と雰囲気に包まれた。もう、降りると言っても周囲が許してくれそうにない。仁亮は腹を括り、条件付きで引き受けることにした。
「分かった。ただし、賞品の二件目はなしだ。とりさげろ」
 意外なことに、要求はあっさりと通った。仁亮が面を食らっていると、外野から追加条件が投じられた。
「二川原が負けたら、鬼頭さんを押し倒してキスしたことについて謝罪しろ」
「ついでに一発殴らせろ」
 何とも物騒な追加条件だったが、開き直った仁亮は全く臆することなく受諾した。もちろん、周囲を取り巻いている有象無象に頭を下げるつもりも、頬を差し出すつもりもさらさらない。要するに、負けなければいいのだ。仁亮は我知らず、口の端に挑戦的な笑みを浮かべていた。
 仁亮は飛び込み台に上った。八本あるコースの四番目、ほぼど真ん中のコースである。喜暢が五と書かれたブロックの上に立つ。ゴーグルを下ろすほんの僅かの間に、二人はひとたび目を合わせた。お前には負けないと、鋭く光る双眸が宣言している。水泳部次期主将の座をかけての勝負である。これまでの二五回とは分けが違う。
「合図は俺が出すぜ」
 どこから持ち出してきたのか、片山史彰がホイッスルを掲げて叫ぶ。反対の声は上がらなかった。はやく始めろと催促する目が向けられる。おっしと意気込んで、史彰はホイッスルを口元に寄せた。仁亮と喜暢が、ブロックに足の指を引っかけ前屈して手を伸ばす。
「ようい」
 史彰が言った。
 一切の音が消えた。勝負の当事者も外野で見守る生徒達も、誰も彼もが息を止めた。緊張は最高潮に達していた。咳もくしゃみも許されない、神聖な無音の一瞬。その中でただ一人、史彰だけが音を立てて盛大に息を吸い込み。
 鋭く笛を吹き鳴らした。

 水しぶきを上げて二人が飛び込んだとたん、プール場は喚声に包まれた。仁亮の名も喜暢の名も等しく叫ばれていたが、後に続く文が全く異なる。喜暢にはきちんと応援の言葉が送られていたが、仁亮に降り注ぐのはいずれも、足をつれだの腕をつれだのターンに失敗して頭をぶつけてしまえだのと、呪いのようなものばかりだ。
 首をつれと叫ぶ声を聞いたとき、あかなは勘違いをして本気で腹を立てた。少なくとも自分だけは仁亮を応援しようと、第一コースのわきに立ってぎゅっと手を握りしめて、左から右にぐんぐん進む青い水泳帽を見つめ続けた。本当は男子たちのように身を乗り出して大声で応援したいのだが、度胸が足りない。せめて仲の良い友人たちが騒いでいてくれれば混ざることができるのに、彼女たちは呆れ半分おもしろ半分で試合を見守っている。
 二人の泳者はあっという間に五〇メートルを泳ぎきって、華麗なクイックターンを披露した。同時に水面に現れ、滑るようにゴールへ向かって突き進んでゆく。もうあと三〇秒と経たぬうちに二人の指は壁を叩くに違いない。そして、喜暢の方が僅かでも早ければ、仁亮は謝らなければならない。朝の一件はただの事故で俺にはそんな感情など欠片もありませんでしたごめんなさいと、宣言してしまう。会場はこの結末を望む声で満たされ、泳者がゴールに近付くにつれてなおも力強さを増している。ひょっとしたら、この忌々しい声どもが力を持って仁亮の邪魔だてをするようになるかもしれない。この国では、言霊が信じられていた時代もあったではないか。
 あかなは腹をくくった。一言叫べば良いのだ――あのときのように。
 あかなは駆けだした。滑りやすいプールサイドを危なっかしい足取りで進み、コーナーを曲がり、四と書かれたブロックに左足を乗せてめいっぱい息を吸い込んだ。騒いでいた連中が一様に驚き、声を止めてあかなを見つめていたが、全く構わない。むしろ、雑音が減って好都合だ。
 手でメガホンを作った。右足が地を離れて青いブロックの上に影を落とす。
 思い出すのは、昨年の体育祭。東軍と西軍に分かれて幾つもの競技で点を取り合い、同点で迎えた最終幕。韋駄天の集う一〇人リレーで、あかなの属する東軍のアンカーは、ちょっと格好良い無名の一年生だった。正直なところ、誰もこのアンカーには期待していなかった。東軍の作戦があたれば、第五と第六走者で西軍を大きく引き離せるはずで、アンカーにかけられる言葉は、転ぶなの三字で十分なはずだった。
 じっさい、勝負は東軍の思惑通りに進んだ。第五と第六走者が大きく西軍を引き離し、西軍の敗北は決まったかに見えた。第九走者が走り出したとき、東軍も西軍も声援を送るのを止めていた。とんだ茶番だと言って笑う者まであった。西軍の第九走者が走り出したとき、すでに東軍の走者はトラックの半分を走りきっていた。東軍の第九走者は調子にのってバトンを高く掲げた。
 すっころんだ。
 とんだハプニングだった。東軍の席はざわめきに包まれた。他方、西軍はわっと沸き立ち、しぼみきっていた声援が再び花開いた。大きく開いていたはずの差がぐんぐん縮まり、アンカーの手にバトンが渡されたとき、東軍も西軍もほぼ横一列に並んでいた。西軍の意気はいよいよ盛り上がった。アンカーの背に、怒濤の声援が送られた。一方で、東軍はしらけきっていた。西軍のアンカーは陸上部の二年生で、ちょっと格好良いだけが取り柄の東軍のアンカーより速いのは分かりきっていた。実際、同時に飛び出した二人の走者の間は、時間が経つにつれて徐々に開いていった。誰もが西軍が勝利する様を錯覚した。あかなももう負けたと思って諦めかけた。そのときである。あかなの目の前を、東軍のアンカーが駆け抜けていった。あかなは偶然彼の顔を見た。それは真剣そのもので、負けることなどちっとも認めてはいなかった。
 諦めちゃだめだと思った。
 手でメガホンを作り、あかなは叫んだ。最前列にいたのが幸いした。声はアンカーを任された無名の男子の背に向けて、誰に邪魔されることもなく一直線に飛んだ。届き、押した。
 くだんの男子の速度が目に見えて上がった。差をつけられる一方であったのが、一転してぐんぐん縮めていった。片足が並び、両足が並んだ。この時にはもうゴールは目前だった。一瞬後にどちらがゴールテープを切るか、もう誰にも分からない。あるのは希望だけだ。あかなはいよいよ必死に声援を送った。気付けば声を出しているのはあかな一人ではなくなっていた。東軍の誰もが立ち上がって「抜け、抜け」と叫んでいた。東軍と西軍の声がぶつかり合い、耳を聾するほどの声量となって校庭を包んだ。
 その中で、彼が、ゴールテープを切った。
 ふら、と身体が傾いた。
 あ、と思ったときにはもう手遅れだった。踏ん張ろうとして左足に力を篭めたのが、事態を更に悪化させた。ブロックを蹴る格好で、あかなは転落した。
 水音がたったとたん、水上は大騒ぎになった。心構えなく落ちたあかなは、でたらめに手足を動かして浮き沈みしている。溺れているのは誰の目にも明らかだ。
 男子数名が救助に向かおうと身を乗り出した。コースロープの上に落ちた彼女は、幸いにも第三コース側に転がっていた。助けにいっても直接勝負を邪魔することにはならないし、多少波が立ったとしても、被害を受けるのは主に仁亮の方である。躊躇する理由はどこにもなかった。
 だから、史彰がその理由を作り出した。
「待てよ、お前ら」
 いましも飛び込もうとしていた男子たちが、一斉に動きを止めて振り返る。その様を見て、史彰は勝利を確信した。彼らは動きを止めるべきではなかったのだ。
 鋭い視線に全身を貫かれながらも、史彰は実に堂々としていた。ひもを指に引っかけてホイッスルを振り回し、気楽なものである。
「黙って見てろ。二川原が助けるから」
 史彰の発言は、誰にも賛同されなかった。あかなが溺れているのは、彼が泳ぐ隣のコースである。挙げ句に、息継ぎのために上げる顔の方向が全く逆で、事態を観測することすらできそうにない。小数点以下に〇が一〇〇個以上は続きそうな確率など当てにできるものかと、男子たちは再び水面に臨んだ。
 そして、奇跡を見た。
 ゴールを目前にして、仁亮の泳ぎが突然変化した。深く水中に沈んだかと思えば、コースロープの下を潜って第三コースに現れ、助けを求めてでたらめに伸ばされたあかなの手をしっかりと掴んだ。力の限り暴れるあかなを、細身に似つかわしくない筋力でおさえ込み、抱き寄せる。
 あっという間だった。あかなはもう暴れていない。仁亮の背に腕を回してしっかりと抱き付き、胸に頭をあずけている。その様は、ひっしと抱き合う恋人同士だ。
 水上はしばし静寂の領分となった。

 プールサイドに引き上げられたあかなは、すぐさま休憩室に押し込まれた。僅かに後れて、仁亮も同じ運命をたどった。仁亮はあかなと仲の良い女子にその大任を譲ろうとしたのだが、あっさりと断られてしまった。ばかりか、水泳部の次期主将なのだから溺れた女の子の面倒ぐらいちゃんと見るべし、と言いがかりをつけられる始末である。結局、逃げ込むようにして休憩室の扉を開けた。
 四面ある休憩室の壁のうち、正面と右の二面には二脚の長いすが寄せられている。具合の悪くなった人間がちょっと休むのに使うのである。左の一面は戸棚と古びた机の背もたれとなっていた。戸棚には絆創膏などを納めた救急箱といくつかの薬が納められ、その脇の机の上には緊急連絡用の電話が置かれている。
 あかなは右手の長いすにちょこんと腰掛けていた。寝ていなきゃだめじゃないかと仁亮が苦笑を漏らすと、寝心地が悪いからと我が儘を返す。十分元気だと分かって、仁亮はすっかり安心した。同時に会話のネタがつきた。今度は気まずさに対処しなければならない。
 簡単なのは、逃げ出してしまうことだった。あかなが元気と分かれば、もう休憩室にとどまる理由はないはずである。部屋に入ってから、一歩も踏み込まなかったのが幸いした。少し手を後ろに伸ばせば扉があり、ドアノブを探り当てるのも簡単だった。それじゃあと言い残して、仁亮はドアノブを捻った。
 手が滑った。緊張のせいで汗をかいていたのだ。お陰で、仁亮はあかなの言葉を聞き漏らさずに済んだ。
「やっぱり、負けになるのかな」
 随分と力の籠もらない声だった。もちろん、さきほどの勝負のことである。
 当然のところながら、喜暢が先にゴールした。仁亮があかなを抱きしめたとき、喜暢は既に立ち上がって第三コースに目を向けていた。タイム係までもが仁亮とあかなの方に注意を奪われて時計を止め忘れてしまったため、正確なところは分からないが、ひょっとすると喜暢は自己ベストを叩きだしていたかもしれない。
 仁亮がプールから上がったとき、すぐ傍らに喜暢が立っていた。何事か文句を言われるだろうと仁亮は多少の覚悟をしたが、杞憂だった。喜暢は複雑な表情をして見つめてくるばかりで、ぴくりとも口を動かさなかった。思ったことは何でも口にしなければ気が済まないたちの男にしては、尋常ならざる事態である。収拾策を練っているに違いない。結論は容易に想像できた。
「気にしなくて良いよ。どうせやり直しに決まっているから」
 仁亮はおどけた調子で言った。あの熱血漢の喜暢が、事故つきの勝負で満足するはずがない。今日の放課後にでももう一戦交えることになるだろうと、仁亮は高を括っていた。
 この返答は、仁亮がみるところ九〇点以上のできだった。十分に気楽な風を装うことができたし、内容も独りよがりな楽観ではない。消沈して見えるあかなの意気は、これで回復するはずだった。
 全くの見当外れだった。
 あかなは全然別のことを気にしていた。その一事の前には、水泳部主将の座も勝負の行方もどうでもよい。きっと仁亮にも理解されていると思っていた。
 それなのに。
 全く別方向の答えを貰い、あかなは腹を立てた。普段ならちゃんと働いてくれるはずの歯止めが反応しない。ぐっと拳を握り、仁亮を見据え、思いつくままに言葉を並べる。わたしが聞きたいのはそんなことじゃない。水泳部のこと以外にも、あの勝負には約束事があった。外野の、顔も名前も知らない男子たちがつけたあの身勝手な注文。
「朝のこと――キスしたこと、あやまるの?」
 仁亮は情けないほどうろたえた。あかなの激しい語気にも面食らったが、じっと見つめてくる彼女の目に、すっかりやられていた。
 よし。
 あかなは立ち上がった。まったく突然だった。仁亮は動けない。あかなは左右の足をそれぞれ一度ずつ動かして仁亮に迫り、そこでふらりと前に倒れた。やはり仁亮は動けなかったが、このときにはもう、あかなは仁亮のすぐ目の前にいた。お陰で、あかなが仁亮の胸に飛び込む形になった。どんと軽い衝撃を受けて、漸く仁亮は身体の自由を取り戻した。大丈夫かと顔を俯ける。
 それはあかなにとって待望の瞬間だった。立ち上がった時から、このときだけを狙っていたのだ。
 あかなは勇気を振り絞った。目を閉じて、ちょっと上向いて、あやまって欲しくないと一心に想って。
 背伸びを、した。
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