短篇

いつか、必ず




 雨の騒がしい夜のことである。モール商会の追っ手から逃れ、薄暗いバーの、更に暗い一角で静かにグラスを傾けていた私は、唐突に銃口を向けられた。
 銃を握っているのは子供だった。つい先ほど蹴破るように扉を開けて飛び込んできた赤毛の少女である。見覚えがあると思い何となく目を向けていたものだったが、まさか、銃口を向けられようとは。唖然として、私はただ少女を見つめるばかりである。
「ギルバート・ダントンだな」
 名を呼ばれて我に返った私は、あっと声を上げかけた。見覚えの正体が分かったのである。一枚の写真だ。親友の家に飾られた、数少ない調度品の一つ。映っているのは、強面の大男と美しい奥方、そして、五歳になったばかりだという可憐な少女だった。写真を見せた時の、巨躯の親友の優しい笑顔と言葉が、耳の奥で蘇る。メアリというんだ。俺に似ず、可愛らしい娘だろう。
 時を越えて、私は深々と頷いた。現在から見ればかれこれ一〇年前のものになるはずだが、なるほど、麗しい少女は美しく成長して、ますます母親に似たようである。
 正体が分かると、今度は私の命を狙う動機が気になった。残念ながら、とんと身に覚えがない。だいたい、一〇年前の写真越しに会ったことしかないのだ。それも一方的にである。
 答えは思い掛けず見つかった。メアリが口にした、呪いの様な一言の中である。
「どうしてお父さんを撃った!」
 私は愕然とした。意識が凍り付いてしまったようである。一方で、私の冷静な部分は猛然と働き出していた。彼女に偽りの情報を吹き込んだ犯人を特定するためである。長くはかからない。私はすぐに邪悪で卑劣な罠を見抜いた。
 とたんに怒りが湧き起こり、瞬く間に私の心を制圧した。憤怒と憎悪に下った脳が、怨嗟にも似た罵詈雑言を次々と生み出す。口に出さなかったのは、自制心が残っていたためではない。一度に幾つもの言葉が流れ込んだために、発話機構が詰まって動作しなくなっただけのことである。開かれない顎に力が溜まり、ぎりぎりと私は歯を軋らせた。
 あの脂狸め、魂の一欠片まで腐ってやがる!

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 私にとって、メアリの父ランダルフは、無二の親友だった。後ろ暗い所の多いモール商会で働く仲間の中では、唯一の友人である。出逢った当初は、これほど扱いにくい男もいるまいとほとほと困り果てていたというのに、いやはや、人生の歯車というものは、どこで何とかみ合うか、まるで予想がつかない。
 外れる時もまた、同様である。
 一ヶ月ほど前のことだ。私は商会の上司から、かつてないほど後ろめたい仕事を命じられた。裏切り者を捜し出せというのである。嫌悪感が湧き起こったのは言うまでもない。
 でっぷりと太った男の脂ぎった下品な顔を前にして、私はただ黙然と頷いた。ひとたび口を開けば、忽ち本音が飛び出してしまったことだろう。言葉として表さずとも、考えは声に乗る。悪いことに、目の前で踏ん反り返る脂狸は、女の嬌声に潜む嫌悪には全く無頓着であるくせに、部下の反抗的な声にはやたら敏感な男だった。げすの鑑というわけである。
 厄介なことをしてくれたものだ。漸く解放されて上司の部屋を辞した私は、誰とも知れぬ敵に向け、悪態混じりの重い息を吐いた。ばれぬように行ってくれれば良かったのに。
 モール商会は惑星オルディアスとの違法な交易を行っていた。違法とされるのは、オルディアスが封鎖され、交易はもちろん、宙域に入ることさえも、法によって禁じられていたためである。人類の生存を脅かす強靱な生物――通称ドラゴン――の巣が発見されたのだ。早速惑星封鎖令が適用されて監視局が置かれ、以降五年にわたり、オルディアスは孤立している。
 厄介なのは、オルディアスに大勢の人間が取り残されているという事実だった。封鎖令が適用されれば直ちに一切の出入りが禁止されるのだから、当然である。
 人があれば、交易は続く。監視局の目を盗む技術のある組織が、高額で物資や情報のやりとりを請け負うようになるというわけである。
 モール商会にも、監視局の目を盗んでオルディアスに潜り込む秘策があった。あの穢らわしい上司が考え出したというこの秘策は、発案者に言わせれば完璧で、監視局には絶対に悟られることがないという。大した自信だと鼻で笑いたいところだが、数字を見せられると感心せざるを得ない。最近の二ヶ月を除けば、監視局に悟られたことは、確かに一度もなかったのである。
 だから、除かれた二ヶ月における失敗の連続は、私の目にもとても異様に見えた。内通者が現れたとしか思えない変わり様だったのである。
 全く乗り気のしない仕事だったにも関わらず、私は精力的に調査を行った。むろん犯人を突き止めるためだったのだが、上司に報告する気はさらさらない。私の狙いは別の所にあった。犯人に忠告して、商会の関心が逸れるまで密告を控えさせるのである。
 それぞれの部署に、互いに異なる偽の情報を流した。私の上司と同じ類の腐臭を纏う男たちに、仲間の悪事を密告するよう唆したりもした。
 私がランダルフほど潔癖で正義感に溢れる男だったならば、己の行いを恥じて酷い自己嫌悪に陥り、二度と立ち直れなかったことだろう。既に、私も、モール商会の内部に漂う禍々しい気配に中てられていたのかもしれない。
 私の撒いた種は順調に育った。そして、二〇日後。とうとう私は裏切り者の正体を突き止めた。
 ランダルフ・クリフトン。私の、親友である。

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 すぐさま私はランダルフと会うことにした。むろん、上司には報告せずに、である。
 行動自体は当初からの計画通りだったが、目的が変わっていた。ランダルフを庇おうと企むようになっていたのである。調査を始めた時には、強欲な上司の弛んだあごと頬、脂でてかった団子鼻、そして後退した頭髪の生え際に泥を塗ってやろうと企む程度で、犯人の庇い立ては「もののついで」だったのだが、今や優先順位が逆転していた。善良な親友を売るような真似は、私にはできない。
「こいつは驚いた。お前がこんな薄汚い場所に来るなんて」
 扉を叩いて待つこと三〇秒。勢いよく扉を開けたランダルフは、突然訪問した私を快く迎え入れてくれた。
「男の一人暮らしなんだ。汚いが、文句は言うなよ」
 謙遜である。ランダルフが部屋を借りたアパートそのものはお世辞にも綺麗とは言えない代物だったが、彼の管理する部屋に不潔な様子は一切なかった。良く片付いている。物が少ないというのもあるが、このひげ面の大男は、見た目に反して実に几帳面なのだった。洗濯物がたまることもない。
 暫く他愛のない話をして、私たちは友好を確かめあった。近頃は互いに顔を合わせることがなく、話をするのも久方ぶりだった。忙しかったのだ――と言いたいところだが、これはうわべの理由である。本当は、私が彼に会いたくなかったのだ。モール商会の裏をこそこそと這い回るばかりの私と、表で堂々と働く善良な大男とでは、吸っている空気が違いすぎる。
 いや。
 私はただ、親友にすら疑いをかけていることに後ろめたさを憶えて、逃げていたのだった。
 こんな事だから、友人の奇妙な点に気づけないでいたのだろう。確かに私はランダルフに会うのを尻込みするようになったが、実のところ、避けねばならぬ場面には一度たりと遭遇しなかったのである。今までの頻繁な交友に鑑みれば、相手も私を避けようとしていたのに違いなかった。
 中身のない会話が止まったのは、つけっぱなしにされていたテレビが惑星オルディアスに関するニュースを流し始めたからだった。ランダルフと私は、どちらからともなく、酒で口をいっぱいにした。言葉を封じてしまおうというのである。
 もっとも、沈黙は長続きしなかった。ランダルフの性分を考えれば、当然の成り行きである。誠実で潔癖な親友は、嘘や隠し事が大の苦手だったのだから。
「ギルバートよ。俺は、お前に隠し事をしていた。俺はな、商会を裏切ったんだ」
 ランダルフは語り出した。強い罪悪感が、彼の我慢を遂に打ち破ってしまったようである。言葉の流れる様は、滔々というよりは轟々という感じで、澱みがないばかりか、妨げるもの全てを押し流す勢いだ。
 告白は仔細に及んだ。モール商会の裏を知ったことから始まり、舟航計画の窃取と監視局への密告の方法および回数まで聞かされた――ような気がしている。曖昧になるのは、一重に、私が親友の告白から耳を背けていたためだった。余計なことを知ってしまえば、上司への虚偽の報告がばれて捕らえられたときに、漏らしてしまいかねない。
 全く、私は最後の最後まで、親友よりも自分の我が侭を優先させていたというわけだ。ランダルフは胸中を吐露することで救いを求めていたというのに。彼が私にとって唯一の友人であったように、私も彼の唯一の友人だったというのに。最愛の妻に死なれ、娘を寮に置いて単身赴任してきたこの大男には、もはや私しかいなかったのだというのに。

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 残念ながら、ランダルフの告白は最後に至らなかった。邪魔が入ったのだ。俄に外が騒がしくなったかと思うと、荒々しく扉が破られて、男が三人乗り込んできた。
 私にはいずれも初対面であったが、ランダルフには異なったようである。彼は三秒ほど驚き、呆然としたが、すぐさま驚愕の面を脱ぎ捨てて憤怒の形相を露わにした。
「何のつもりだ、これは!」
 闖入者たちは答えなかった。答えるつもりなど、最初からなかったのだろう。私の姿を認めるや、揃って銃を引き抜いた。
 ランダルフは血相を変えた。きっと伏せろとか止めろと怒鳴ったのだろうが、正確なところは分からない。殺しきれない銃声が群れをなして辺りを埋め尽くし、他の全ての音を飲み込んでしまったためである。
 銃弾は私の頬を掠めただけで、致命傷を作ることはできなかった。鋭い直感が私の身体を引き倒して、すんでの所で射軸から外したのである。もし彼らが知人であったならばこうはいくまい。実際、ランダルフは呆然と佇むばかりで、恰好の的であった。銃口が彼に向いていれば、間違いなく蜂の巣にされていたことだろう。
 我に返ったランダルフが暴徒の取り押さえに乗り出したとき、既に私は銃を抜いていた。モール商会の暗部に属する私には、銃撃戦も日常茶飯事である。盾にしたソファの影から飛び出すと、正確に三度、私は引き金を引いた。飛び出した銃弾は、どれも正確に、男たちの額を貫いた。
 室内は以前にも増して静かになった。耳が莫迦になったわけではない。闖入者たちの撃った銃弾がくらいニュースを垂れ流すテレビを破壊してしまったためである。まったく腕の悪い連中だったが、文句は言うまい。お陰で私は生き残れたのだ。
 私がテレビの残骸に目を投じている間に、ランダルフは倒れた三人の下に駆け寄っていた。骸を揺すり、それぞれの名前を数度呼んだようだったが、無駄というものである。死者の国は、指呼の間にない。
 やがて、矛先は私に向かった。二股の矛である。何故こういうことになる。何故こいつらはお前を殺そうとした。何故、お前はこいつらを殺した。
 今度は私が白状する番だった。
「顔を合わせ辛かったのはお互い様だ。隠し事をしていたのは、お前だけじゃなかったのさ」
 私の告白は、ランダルフに小さからぬ衝撃を与えたようだった。話がまだ終わらぬうちに、心優しい強面の親友は、私に詰め寄って肩を掴んだ。篭められた力はとても強く、肩の骨を押し潰そうとするかのようである。私は顔を歪めて無言の抗議をしたが、怒れる巨人には通じない。角張った顔を寄せて、言葉を直接叩き付けるように怒鳴るばかりである。
「すると、貴様は何年も前からドラゴンの密売を知っていたというのか。あれが危険なものだと知っていながら」
「密売ばかりじゃない。あの荒れ果てた大地で、外からの援助無しに、人が暮らしてゆけると思うか」
 分かっているともと怒鳴って、ランダルフは私を解放してくれた。無言の抗議が功を奏したというわけではなかろう。珍しい――本当に珍しいことに、この時のランダルフからは、優しさや思い遣りといった類の暖かさが欠片も感じられなかったのである。半ば突き飛ばされて、私はよろめき、身を屈めた。そうして、一息吐いて顔を上げたとき。
「だから俺は、帰りの船だけを教えたんだ。こいつらと、必死になって、情報を集めてな!」
 憤懣の翼を広げて悶える巨人の背後。無惨に破られた扉の向こうに。
 星明かりを反射してきらりと光る、小さな銃口があった。
 狙いはランダルフである。
 私は咄嗟に叫んだ。何と言ったか、今となってはもう憶えていない。それほど必死だったのだ。
 音速で巨人の耳を狙う私の忠告は、超音速で頭蓋を襲う銃弾に勝てなかった。駆け寄って突き飛ばす間も、もちろんない。
 ランダルフは、一度低くうめくと、顔面から不格好に倒れた。
 それきり、もう二度と、私に憤りに満ちた声を聞かせてくれることは無かった。

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 すぐに私はモール商会を辞めた。辞表を提出したわけではないが、双方の利害は一致している。ランダルフを撃った刺客が、次いで私に狙いを定めたのである。私は銃弾を避け、闇からも光からも姿を隠すように惑星フーリエの上を渡り歩き、つい先日に漸くフーリエからの脱出経路を手に入れた。
 そして、油断している隙を見事に突かれて、私は今、復讐心に燃えるメアリの眼前に座っている。濡れ衣を着せられたというわけだ。振り返ってみれば随分と間抜けな話だが、あいにく私はお人好しではない。脂狸を呪わず、自分のみを責めるような殊勝な心は持ち合わせていない。
 深呼吸をして、私は心を焼き尽くさんとする怒りの炎を吹き払った。
「神々に誓って。ランダルフを撃ったのは、私ではありません」
 両手を挙げて答えながら、こっそりと店内を窺う。メアリは、店に飛び込んでから迷うことなく私の前に立ち、銃を引き抜いた。ということは、この一五歳を迎えたばかりの少女を嗾けた卑怯者の一味も店内にいるはずである。これからの展開を想像して興奮し、無関心を装うのに必死であるに違いない。
 残念なことに、怪しい人物は見つからなかった。いや、特定できなかった、というべきか。惑星フーリエで最も治安の悪い町の、ぼろいバーである。怪しくない輩など、あるはずもない。木を隠すなら森の中というわけだが、私の立場から見れば、飛んで火に入る夏の虫、といったところだろう。
「どうしてお父さんを撃ったのって訊いているの!」
 メアリがヒステリックな声をあげた。私の弁明に耳を貸してくれるつもりは、毛頭ないらしい。
 これは参った。私は束の間頭を抱えた。素人の弾など恐くはないが、親友の愛娘で、しかもとびきりの美少女に恨まれ続けるのは、是非とも勘弁願いたい。真実を聞かせて説得したいところである。怒りと憎しみを溢れるほど抱え込んでいるため、このままでは私の声など届きそうにないが――
 私は荒療治に頼ることにした。
「撃っていないのだから、答えようがありません。それどころか、必死になって、記憶を掘り起こしているところですよ。いつこんな可愛らしいお嬢さんの不興を買ったんだろう、とね」
 相手の神経を逆なでする物言いは、私の十八番である。嫌な特技だと思うが、役に立つのだから文句は言うまい。
 私の唱えた呪文は効力を遺憾なく発揮した。まっすぐ私を見つめるハシバミ色の双眸に、狂気が浮かび上がる。
「よくもそんな白々しいことを!」
 少女が叫ぶのと同時に、銃口が火を噴いた。引き金を引いたのは、もちろん彼女である。僅かに身を捻って銃弾を躱すと、私は素早く少女に詰め寄った。
 所詮、蛮行とは無縁に育った麗しい少女である。私の動きに全く付いてこられず、メアリはあっさりと接近を許した。おまけに、見た目通りの非力である。細い腕を軽く打ってやると、彼女は呆気なく銃を手放した。
 しまったと言わんばかりの表情で、メアリは注意を足下に向けた。取り落とした銃を目で追いかけているわけだが、なんとも微笑ましい反応である。怖ろしい仇敵の目の前だというのに、まるでコインを落として慌てる様だ。
 拾い上げるまで待ってやっても良かったのが、残念なことに、周囲が悠長を許さなかった。視野外から不吉な気配が漂ってきたのである。私が陣取っていたテーブルのちょうど隣。射撃はどうかしらないが、腕力勝負ならば誰にも負けないと言わんばかりの男が五人、下品な笑いを浮かべて座っている。一人のために五人も投入するとは、私も随分と高く評価されたものだ。
 私は素早く少女の白く細い腕を捻り上げた。悲鳴があがる。少女の口からではない。私の心の中からである。良心の呵責というやつだ。私は心の耳を強く閉ざした。
 痛い、離せとメアリが喚く。私は一切を無視して、彼女の手の引いた。小さな身体が私の胸に倒れ込む。
 メアリをきつく抱きしめると、私は大きく跳躍した。銃弾が私の残滓を食い破ったのは、一瞬後のことである。私は胸を撫で下ろした。射撃の腕は素人とあまり変わらないようだ。
 ロングコートの裾を翻し、ジョッキや食器を蹴飛ばしながら、私はテーブルの上を飛び渡った。忽ち店内は荒くれ者たちの怒号で一杯になった。カウンタの奥でグラスを磨いていた青年が、またかという表情でいち早く身を屈める。最後に私の顔を見ていたのは、今後に備えてのことであろう。もう二度とこの店には入れまいが、残念には思わなかった。予定通りに行けば、三時間後には宇宙船の中にいる身である。彼が生きて働く間、私がこの店に立ち入ることはあるまい。
 扉を蹴破り、街路に飛び出したところで、メアリの声が聞こえてきた。
「放してよ、この人でなし!」
 言葉こそ威勢が良いが、私のコートの中で、私の胸に頬を当てる形できつく抱きしめられながら上目遣いに言うのでは、台無しだ。可愛らしいことこの上ない。裏路地に飛び込み、積み上げられた木箱を蹴って屋根上に上がった私は、メアリの望み聞き容れてやった。
 唐突に解放されて、メアリは面食らったらしい。平衡のとり方を忘れたようにふらふらと危なげに屋根の上を歩き、五歩数えて漸く立ち止まった。そして、顔を上げて私を睨むなり、
「あなた、最低よ」
 どうやら、威勢だけは失っていないようである。強がりであれば、大したものだ。
 くらい夜空からは星明かりの代わりに雨滴が降り、地上からは男たちの怒鳴り声が立ち上る。両者が相争って共倒れしてくれれば好都合なのだが、この世界を支配する神々には、私のささやかな望みを聞き容れるつもりがないらしい。お陰で、メアリはすぐに全身ずぶ濡れになった。撥水性のあるハットとロングコートで身を覆っている私とは、えらい違いである。
「どうしてお父さんを殺したりしたの。親友だったんでしょ、あなたたち」
 ゆうにバケツ一杯分はある水を被って、メアリはいくぶん冷静さを取り戻していた。大きく魅力的な瞳は未だ敵愾心に充ち満ちているが、心と頭には、私の言葉を容れるだけの空きがありそうである。夜景を映して煌めく彼女の目をしっかりと見据えて、私は顛末を話した。
 もちろん、あっさりと信じてくれるはずもない。私は根気強く、真実を伝えようとした。ランダルフを殺したのは私ではない。モール商会の誰かだ。私の後をこっそりとつけてきたそいつは、ランダルフの部屋に三人の男たちが押し入っていくのを見て、心躍らせたことだろう。私の凄惨な死に様を思い描いたに違いない。そして、騒動が収まって、ランダルフが無防備の背中を晒したところを、待ってましたとばかりに撃ち抜いたのだ。
「犯人は分かりませんが、指示を送ったやつなら分かっています。貴女をここに招き寄せたのも、やつの仕業に違いない」
 そいつは誰だとメアリは私に詰め寄った。どうやら、私の話を信じる気になってくれたらしい。漸く光明が見えてきたというわけである。私はメアリの細い肩を掴んで、一言一句、はっきりと伝えた。
「教えるわけにはゆきません。真っ当な人間は、復讐を唆したりはしないものです」
 メアリは納得しなかった。でも、と食い下がる構えである。私は長期戦を覚悟した。
 覚悟は二分と保たなかった。足下が騒がしくなったためである。木箱を上がろうとする物音を聞いて、私はメアリを素早く抱き上げた。ランダルフとは似ても似つかぬ可憐な少女は、小さくて、軽い。
 驚いて暴れ出す彼女に大人しくしているよう告げて、私は駆けだした。無計画に拡大していったこの町は、建物が近接して建ち並び、たいへん猥雑な有様だったが、屋根上を飛び渡るにはもってこいである。足下に跳ねる弾丸には目もくれず、私は一息に三軒を飛び越えた。
 四軒目の上に着地したとき、ふと、メアリが問い掛けた。ねえ、あなたは悔しくないの? 仲が良かったんでしょう?
 復讐云々のことだ。諫めた私がこっそり仇を取ってしまうのではないかと疑っているのだろう。やれやれ、麗しいばかりでなく賢い娘であったようである。
 私はゆっくりと首を横に振って、腕の中のメアリを見つめた。
「麗しいお嬢さんを放っておくなんて、私にはできません」
 彼女がどう受け取ったか、残念ながら、私には分からない。ちょうど屋根が尽きる頃で、私は次の足場を定めなければならなかった。
 追っ手の姿は随分遠い。追撃を諦めたようだ。とは言え、油断は禁物である。脂狸はメアリをも狙ってくることだろう。暫くは私が面倒を見てやらねばなるまい。先刻の言葉通り、放っておくことなどできないのである。
 外れたと思っていた歯車は、未だ噛み合わさっていたのだ。私が自ら払い除けようとしない限り、ずっと共に廻り続ける。
 だから、私は――
 大きく息を吸い込んで。
 私はまた一度、大きく跳び上がった。
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